正覚廃寺から鞍作寺、奥田邸まで1500年にも及ぶ加美郷の歴史に
ググッと迫まったぞ大阪あそ歩2015-10-25参加スタンプ

庄屋宅イラスト

参加コース行程



今回訪れた場所の詳しい内容は下記からどうぞ

今回歩いたコースのGPS軌跡です。
左上四角をクリックで一覧が表示。
地図上のマーカーをクリックすると簡単な説明や写真を見ることができます。


JR平野駅-積善橋-旭神社(若宮八幡宮)-正覚廃寺(東之坊)-畠山政長の墓

JR平野駅からまち歩きスタートです。


積善橋

積善橋
積善橋

平野川
平野川



積善橋でガイドの吉村直樹さんの説明を聞いた。
なぜ積善橋で説明するのかについて話された。
詳しいことを思い出せない。

積善橋が重要だったのか、積善と言う言葉が重要と言われたのか。
ただこの橋がかかっている川は平野川。
橋の名前よりも下を流れている川が重要だ、といったのようにも思われる。

平野川は小さな川だが、重要な川だという説明を受けた。
平野川を利用して水運が盛んだったとか。

旭神社(若宮八幡宮)

旭神社へのまち歩き
旭神社へのまち歩き

旭神社(若宮八幡宮)2
旭神社(若宮八幡宮)

天然記念物指定
天然記念物指定の大木

正覚寺城跡
境内には正覚寺城跡の碑


正覚廃寺(東之坊)

正覚廃寺(東之坊)
正覚廃寺(東之坊)

正覚廃寺(東之坊)
正覚廃寺(東之坊)説明



正覚寺は天長2年(825)弘法大師によって創建されたそうです。
とても広くて大きなお寺だった。
しかしその後、幾たびもの戦火で焼失。

楠木正成も何度も参拝したそうです。
現在は末寺の東之坊だけが現存。

この辺りの住所は加美正覚寺と言う地名が残っている。


畠山政長の墓

畠山政長の墓への道標
畠山政長の墓への道標

畠山政長の墓
畠山政長の墓

畠山政長の墓
畠山政長の墓

畠山政長の墓説明板
畠山政長の墓説明板


畠山政長及び正覚寺の合戦について

明応2年(1493年)2月25日に畠山政長が室町幕府10代将軍足利義稙と共に正覚寺城(現在の旭神社境内)に本陣を敷き畠山義豊と対峙するも逆襲に遭い、
それに荷担した細川政元が京都でクーデターを起こし(明応の政変)、
諸将合わせて4万余の兵を率いて進撃、4月23日に本陣は陥落し政長は自殺、
義稙は捕虜となり、寺は兵火に合い三日三晩燃え続け、寺院内の高僧や修行僧は寺院と運命を共にした(正覚寺合戦)。

以後、正覚寺は廃寺となり、現在、正覚寺旧六坊(柳之坊、池之坊、中之坊、大寺坊、揚々之坊、東之坊)のうち東之坊のみ現存し、山門の傍らに『正覚廃寺の由来碑』がある。

  • ウィキペディアより---

畠山政長の墓は目立たぬ住宅地の奥の隅にある。
室町幕府で要職にあった人にしては寂しい限りのお墓だ。
正直、私は畠山政長のことはよく知らなかった。すみませんでした。




がんこ平野郷屋敷・くらしの博物館-奥田邸-鞍作廃寺跡-菅原神社-JR加美駅

コース後半、ゴールは菅原神社です。


がんこ平野郷屋敷・くらしの博物館

がんこ平野郷屋敷
がんこ平野郷屋敷

がんこ平野郷屋敷説明板
がんこ平野郷屋敷説明板

がんこ平野郷屋敷内部のくらしの博物館
がんこ平野郷屋敷内部のくらしの博物館

がんこ平野郷屋敷内の庭園
がんこ平野郷屋敷内の庭園



元々この辺りの大庄家だった「辻元家」の屋敷をがんこフードサービス株式会社が建物を活かして営業。
訪れた時も多くのお客で混雑していました。

がんこ平野郷屋敷内部のくらしの博物館では、辻元家が代々使用してきた道具類、骨董品数多く展示しています。


奥田邸

奥田邸前の旧高札場
奥田邸前の旧高札場

奥田邸前の旧高札場文章
奥田邸前の旧高札場文章

奥田邸長屋門
奥田邸長屋門(表門)

奥田邸の説明板
奥田邸の説明板


奥田邸主屋
奥田邸主屋・主屋へ向かう庭の敷石?向かって左側はお侍さん専用だったそうです。
右が当家の人達用。

奥田邸の米蔵
奥田邸の米蔵

奥田邸に残る昔の農機具類
奥田邸に残る昔の農機具類

奥田邸内にある神社
奥田邸内にある神社



奥田家は名字帯刀を許された大庄屋でした。
大坂夏の陣のとき、徳川の軍勢が奥田家で食事をした(勝手に?)とかの話もあります。

多くの建物が重要文化財に指定されています。
毎月第4日曜日 ( 午前10時より午後4時まで )に内部の見学ができます(要予約)。
今回のまち歩きもちょうど見学できる日でした。

当主の方からいろいろ話を聞くことができました。
とても有意義な時間を過ごせました。

奥田邸当主の方が出演されているYouTubeがありました。

皆さんも是非一度訪れてみてはいかがでしょうか。


鞍作廃寺跡・菅原神社


鞍作廃寺跡
鞍作廃寺跡

鞍作廃寺跡の説明板
鞍作廃寺跡の説明板

鞍作廃寺跡・礎石
鞍作廃寺跡・礎石

菅原神社
菅原神社



大阪あそ歩のこのコース案内に、
奈良時代最高の仏師として知られる鞍作止利のゆかりの土地、とあります。

鞍作止利、全く知りませんでした。

そこで鞍作止利とは

鞍作 止利(くらつくり の とり、生没年不詳)は、飛鳥時代の渡来系の仏師。名は鳥とも記される。
姓は村主。司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。子に福利・人足・真枝がいたとする系図がある。

  • ウィキペディアより---

この地に鞍作氏の氏寺(鞍作廃寺)があったとか。今も礎石が残っています。

勉強不足でよくわからないのですが、重要なところのようです。

菅原神社

今回のまち歩きも、菅原神社がゴールです。
JR加美駅は過ぐ近くです。

平野区加美は奥が深い

初めて加美を歩く。
一見特に目新しい感じはしない。しかし
今回ガイドをしてくださった吉村直樹さんの解説を聞きながら巡り歩くと、
歴史の重みを感じました。

至る所に応仁の乱や大坂夏の陣の戦火の影響が現れている。
つまり戦火で多くのお寺など消滅してしまったのだ。
戦火というと太平洋戦争だと思いがちだが、歴史のある場所では戦国時代のことが多いようだ。

毎回まち歩きをしていて、自分の不勉強さをしみじみと感じます。

それにしても奥田邸の豪農の屋敷、すごかったです。
今までにない経験をしました。

ガイドの吉村直樹さん、ありがとうございました。

今回歩いたコースの感想などは「まち歩きブログ2015-10-25」をご覧下さい。

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コースの空中写真にGPS軌跡を表示。
マーカーをクリックすると簡単な説明が表示されます。


JR平野駅-積善橋-旭神社(若宮八幡宮)-正覚廃寺(東之坊)-畠山政長の墓

JR平野駅からまち歩きスタートです。


積善橋

積善橋
積善橋

平野川
平野川



積善橋でガイドの吉村直樹さんの説明を聞いた。
なぜ積善橋で説明するのかについて話された。
詳しいことを思い出せない。

積善橋が重要だったのか、積善と言う言葉が重要と言われたのか。
ただこの橋がかかっている川は平野川。
橋の名前よりも下を流れている川が重要だ、といったのようにも思われる。

平野川は小さな川だが、重要な川だという説明を受けた。
平野川を利用して水運が盛んだったとか。

旭神社(若宮八幡宮)

旭神社へのまち歩き
旭神社へのまち歩き

旭神社(若宮八幡宮)2
旭神社(若宮八幡宮)

天然記念物指定
天然記念物指定の大木

正覚寺城跡
境内には正覚寺城跡の碑


正覚廃寺(東之坊)

正覚廃寺(東之坊)
正覚廃寺(東之坊)

正覚廃寺(東之坊)
正覚廃寺(東之坊)説明



正覚寺は天長2年(825)弘法大師によって創建されたそうです。
とても広くて大きなお寺だった。
しかしその後、幾たびもの戦火で焼失。

楠木正成も何度も参拝したそうです。
現在は末寺の東之坊だけが現存。

この辺りの住所は加美正覚寺と言う地名が残っている。


畠山政長の墓

畠山政長の墓への道標
畠山政長の墓への道標

畠山政長の墓
畠山政長の墓

畠山政長の墓
畠山政長の墓

畠山政長の墓説明板
畠山政長の墓説明板


畠山政長及び正覚寺の合戦について

明応2年(1493年)2月25日に畠山政長が室町幕府10代将軍足利義稙と共に正覚寺城(現在の旭神社境内)に本陣を敷き畠山義豊と対峙するも逆襲に遭い、
それに荷担した細川政元が京都でクーデターを起こし(明応の政変)、
諸将合わせて4万余の兵を率いて進撃、4月23日に本陣は陥落し政長は自殺、
義稙は捕虜となり、寺は兵火に合い三日三晩燃え続け、寺院内の高僧や修行僧は寺院と運命を共にした(正覚寺合戦)。

以後、正覚寺は廃寺となり、現在、正覚寺旧六坊(柳之坊、池之坊、中之坊、大寺坊、揚々之坊、東之坊)のうち東之坊のみ現存し、山門の傍らに『正覚廃寺の由来碑』がある。

  • ウィキペディアより---

畠山政長の墓は目立たぬ住宅地の奥の隅にある。
室町幕府で要職にあった人にしては寂しい限りのお墓だ。
正直、私は畠山政長のことはよく知らなかった。すみませんでした。




がんこ平野郷屋敷・くらしの博物館-奥田邸-鞍作廃寺跡-菅原神社-JR加美駅

コース後半、ゴールは菅原神社です。


がんこ平野郷屋敷・くらしの博物館

がんこ平野郷屋敷
がんこ平野郷屋敷

がんこ平野郷屋敷説明
がんこ平野郷屋敷説明板

がんこ平野郷屋敷内部のくらしの博物館
がんこ平野郷屋敷内部のくらしの博物館

がんこ平野郷屋敷内の庭園
がんこ平野郷屋敷内の庭園



元々この辺りの大庄家だった「辻元家」の屋敷をがんこフードサービス株式会社が建物を活かして営業。
訪れた時も多くのお客で混雑していました。

がんこ平野郷屋敷内部のくらしの博物館では、辻元家が代々使用してきた道具類、骨董品数多く展示しています。


奥田邸

奥田邸前の旧高札場
奥田邸前の旧高札場

奥田邸前の旧高札場文章
奥田邸前の旧高札場文章

奥田邸長屋門
奥田邸長屋門(表門)

奥田邸の説明板
奥田邸の説明板


奥田邸主屋
奥田邸主屋・主屋へ向かう庭の敷石?向かって左側はお侍さん専用だったそうです。
右が当家の人達用。

奥田邸の米蔵
奥田邸の米蔵

奥田邸に残る昔の農機具類
奥田邸に残る昔の農機具類

奥田邸内にある神社
奥田邸内にある神社



奥田家は名字帯刀を許された大庄屋でした。
大坂夏の陣のとき、徳川の軍勢が奥田家で食事をした(勝手に?)とかの話もあります。

多くの建物が重要文化財に指定されています。
毎月第4日曜日 ( 午前10時より午後4時まで )に内部の見学ができます(要予約)。
今回のまち歩きもちょうど見学できる日でした。

当主の方からいろいろ話を聞くことができました。
とても有意義な時間を過ごせました。

奥田邸当主の方が出演されているYouTubeがありました。

皆さんも是非一度訪れてみてはいかがでしょうか。


鞍作廃寺跡・菅原神社


鞍作廃寺跡
鞍作廃寺跡

鞍作廃寺跡の説明板
鞍作廃寺跡の説明板

鞍作廃寺跡・礎石
鞍作廃寺跡・礎石

菅原神社
菅原神社



大阪あそ歩のこのコース案内に、
奈良時代最高の仏師として知られる鞍作止利のゆかりの土地、とあります。

鞍作止利、全く知りませんでした。

そこで鞍作止利とは

鞍作 止利(くらつくり の とり、生没年不詳)は、飛鳥時代の渡来系の仏師。名は鳥とも記される。
姓は村主。司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。子に福利・人足・真枝がいたとする系図がある。

  • ウィキペディアより---

この地に鞍作氏の氏寺(鞍作廃寺)があったとか。今も礎石が残っています。

勉強不足でよくわからないのですが、重要なところのようです。

菅原神社

今回のまち歩きも、菅原神社がゴールです。
JR加美駅は過ぐ近くです。

平野区加美は奥が深い

初めて加美を歩く。
一見特に目新しい感じはしない。しかし
今回ガイドをしてくださった吉村直樹さんの解説を聞きながら巡り歩くと、
歴史の重みを感じました。

至る所に応仁の乱や大坂夏の陣の戦火の影響が現れている。
つまり戦火で多くのお寺など消滅してしまったのだ。
戦火というと太平洋戦争だと思いがちだが、歴史のある場所では戦国時代のことが多いようだ。

毎回まち歩きをしていて、自分の不勉強さをしみじみと感じます。

それにしても奥田邸の豪農の屋敷、すごかったです。
今までにない経験をしました。

ガイドの吉村直樹さん、ありがとうございました。

今回歩いたコースの感想などは「まち歩きブログ2015-10-25」をご覧下さい。