帝塚山古墳見学の前に、天下茶屋でちょっと一服!すみよし観光ツアー2015-11-1参加
今はなき天下茶屋で抹茶を馳走
東粉浜一丁目付近から見た帝塚山古墳(高さ強調)
紀州街道とは
紀州街道とは大阪と和歌山を結ぶ街道。
古くは住吉大社への街道。
戦国時代になり戦略的にも堺の町が重要になってきた。
豊臣秀吉によって大阪から堺への街道が整備され、途中にある住吉参詣を兼ねた道路「住吉街道」として発達。
江戸時代には紀州藩や岸和田藩の参勤交代のために堺以南が整備された。
以降紀州街道として大阪と和歌山を結ぶ重要な街道となった。
参加コース行程
今回のコースは西成区・阿倍野区・住吉区にまたがります。
南海本線・高野線:岸里玉出駅~1:天下茶屋跡~2:天下茶屋公園~3:安養寺~4:天神ノ森天満宮~5:阿部野神社~6:久保田坂~7:帝塚山古墳~8:土佐陣屋跡~9:大阪住吉教会~10:粉浜万葉歌碑~11:源氏物語碑~12:住吉公園(解散)~最寄駅・南海線住吉大社駅
今回歩いたコースのGPS軌跡です。
左上四角をクリックで一覧が表示。
地図上のマーカーをクリックすると簡単な説明や写真を見ることができます。
天下茶屋ー天下茶屋公園ー安養寺ー天神ノ森天満宮
岸里玉出駅からまち歩きスタート
天下茶屋
天下茶屋は空襲で焼けてしまったとのこと。本当に残念です。
天下茶屋跡については、写真の説明をみてください。写真クリックで拡大します。
ガイドさんの説明によれば、天下茶屋は最初は殿下茶屋(太閤殿下)と呼ばれていたのがその後天下茶屋と呼ばれるようになった、とかの話もあよようです。
天下茶屋公園
現在の天下茶屋公園は是斎屋敷跡だとか。薬屋是斎屋として大いに賑わったそうです。
摂津名所図会でもわかります。薬の成分はセンブリなど。ちゃんとした薬だったようです。
明治天皇駐蹕遺址碑は、明治天皇が住吉大社に参詣の途中この場所で休んだからだそうです。
大正8年建立、藤沢南岳が裏面に見事な漢文で由来を誌している。明治元年4月20日、同10年2月14日、明治天皇が駐蹕臨幸した地である。館主は仮殿を造り奉迎したが、50年の星霜が経ち、主人高津久右衛門は荒廃した仮殿を撤去し、この碑を建てることにした。不朽の美挙である。
ーーーーー西成産業界HPよりーーーーーーー
阿倍寺塔刹柱礎石は、阿倍寺の物がここに移されたそうです。
阿倍寺は四天王寺の末寺で今の阿倍野区松崎町にあったとのこと。つまり今はない。
安養寺
安養寺の詳しいことは「レファレンス事例詳細(Detail of reference example)」をご覧ください。
こちら「大阪再発見」でも詳しく紹介されています。
ガイドさんから詳しい説明を受けましたが、勉強不足で登場人物のこと、あまり詳しく知りませんでした。
小さなお寺ですが、奥が深い歴史が深い。
天神ノ森天満宮
天神ノ森天満宮の詳しい説明は神社説明板の写真をご覧ください。
阿部野神社ー久保田坂ー帝塚山古墳ー土佐陣屋跡
コースは中盤です
阿部野神社
阿部野神社(あべのじんじゃ)は、大阪市阿倍野区北畠にある神社である。南朝方について各地を転戦した北畠顕家と、その父の北畠親房を祀る。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。
ーーー続きはウィキペディアでご覧くださいーーーーー
阿部野神社HPをご覧ください。
久保田坂・帝塚山古墳
久保田坂
久保田坂はこの辺に明治の実業家で久保田鉄工所創業者・久保田権四郎さんの大豪邸があったことから「久保田坂」と呼んでいるそうです。土地などを寄付されたとか。
久保田坂付近の3D画像
久保田坂付近は上町台地の端の方になっています。
なので坂が急なのです。
国土地理院標高データ・5メートルメッシュを使って地形を描画してみました。
標高が低いので高さを3倍にして描いています。
赤い線は今回歩いたコースのGPS軌跡です。
久保田坂付近の3D画像(ジオ地蔵にて作成)
高さを3倍にして描いています。
赤い線が歩いたコースのGPS軌跡
帝塚山古墳
帝塚山と聞くと高級住宅地のイメージがありますね。
閑静な住宅街を歩いて帝塚山古墳にたどり着きます。
帝塚山古墳は国や市などが管理しているわけではないそうです。
「住吉村常盤会」が管理しているとありました。中へは入れなかったので外からの見学です。
大阪市内に残る唯一前方後円墳の原型を留めているんですね。
帝塚山古墳の説明は上の写真説明板をご覧ください。クリックで拡大します。
帝塚山古墳3D画像
帝塚山古墳付近は上町台地の上にあります。
帝塚山古墳3D画像(ジオ地蔵にて作成)
標高が低いので高さを3倍にして描いています。
赤い線が歩いたコースのGPS軌跡
久保田坂・帝塚山古墳付近の3D地形
久保田坂・帝塚山古墳付近の3D地形(基盤地図ビューアにて作成)
赤い線が歩いたコースのGPS軌跡
この図からも帝塚山古墳が、前方後円墳の原型を留めていることがわかります。
土佐陣屋跡
幕末、東粉浜小学校付近一帯に土佐陣屋が作られたそうです。
坂本龍馬も訪れましたが、時間が遅く入れなかったという話もあります。
現在は何も残っていません。
そこで個人の方が説明の碑などを自宅内に作られています(上の写真)。
土佐陣屋跡について「城めぐ」HPが詳しく載せています。
自分の力では何にもできません。いろんなサイトで知るばかりです。
大阪住吉教会ー粉浜万葉歌碑ー源氏物語碑ー住吉公園(解散)
もう少し頑張れ・ゴールは近い
大阪住吉教会ー粉浜万葉歌碑
- 大阪住吉教会
大正7年に建てられました(その後改築あり)。
建物は登録有形文化財に指定されています。
訪れた時は入ることはできませんでした(休みだったのかな忘れました?)。
- 粉浜万葉歌碑
写真の説明板をみてください。
源氏物語碑
立派な源氏物語碑がありました。
でも内容は説明が難しいので、当地を訪れ説明版を読んでくださいね。
住吉公園(解散)
とうとう「すみよし観光ツアー」紀州街道を歩くのゴール住吉公園に着きました。
最後に芭蕉の句碑の説明を受け、お土産のお菓子をいただいて解散です。
住吉大社汐掛け道と灯篭
住吉公園には多くの灯篭があります。
これについても少し説明がありました。
説明板の写真をご覧ください。
- 汐掛道顕彰碑HPもどうぞ
まち歩きを終えて
初めて紀州街道の一部を歩きました。
天下茶屋や帝塚山古墳など名前だけは知っているが行く機会がなかった。
今回のまち歩きで歴史的にも地理的にも面白いところを歩けて満足です。
ガイドさんの詳しい説明を受けながら、それをHPにちゃんと活かせないなんて情けない。
不勉強さが目立つHPとなりました。
でも自分では楽しかったまち歩きでした。
一生懸命説明や道案内をしてくれたガイドさん、本当にありがとうございました。
おっと忘れるところでした。
今回訪れた紀州街道は海から遠く離れています。
しかし太閤秀吉が住吉大社へお参りしていた時代は、海は上町台地の近くまで迫っていたそうです。
つまり漁業なども盛んだったかもしれません。
粉浜など浜の付く地名は海が近かった頃の名残でしょうか。
現在の景色だけ見てあれこれ考えてもダメということです。
歴史を知ること大事ですね。
このこともガイドさんが熱く話されました。
それから秀吉が堺へ行っていた頃は、今の大和川はなかったのですね。
つまり川を渡らず堺へ行けた。
歴史映画やドラマの時代考証大事ですね。
なんでも鵜呑みにしてはいけない、てことですね。
今回の「紀州街道を歩く」まち歩き途中の感想は「まち歩きブログ2015-11-1」をご覧ください。
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今回歩いたコースのGPS軌跡です。
地図上のマーカーをクリックすると簡単な説明や写真を見ることができます。
天下茶屋ー天下茶屋公園ー安養寺ー天神ノ森天満宮
岸里玉出駅からまち歩きスタート
天下茶屋
天下茶屋跡
天下茶屋跡説明1
天下茶屋図
天下茶屋・摂津名所図会より
天下茶屋は空襲で焼けてしまったとのこと。本当に残念です。
ガイドさんの説明によれば、天下茶屋は最初は殿下茶屋(太閤殿下)と呼ばれていたのがその後天下茶屋と呼ばれるようになった、とかの話もあよようです。
天下茶屋公園
天下茶屋公園・是斎屋跡
薬屋是斎屋・摂津名所図会より
阿倍寺塔刹柱礎石
明治天皇駐蹕遺址碑
現在の天下茶屋公園は是斎屋敷跡だとか。薬屋是斎屋として大いに賑わったそうです。
摂津名所図会でもわかります。薬の成分はセンブリなど。ちゃんとした薬だったようです。
明治天皇駐蹕遺址碑は、明治天皇が住吉大社に参詣の途中この場所で休んだからだそうです。
大正8年建立、藤沢南岳が裏面に見事な漢文で由来を誌している。明治元年4月20日、同10年2月14日、明治天皇が駐蹕臨幸した地である。館主は仮殿を造り奉迎したが、50年の星霜が経ち、主人高津久右衛門は荒廃した仮殿を撤去し、この碑を建てることにした。不朽の美挙である。
ーーーーー西成産業界HPよりーーーーーーー
阿倍寺塔刹柱礎石は、阿倍寺の物がここに移されたそうです。
阿倍寺は四天王寺の末寺で今の阿倍野区松崎町にあったとのこと。つまり今はない。
阿倍寺塔刹柱礎石の説明
安養寺
安養寺1
安養寺2
安養寺3
安養寺の詳しいことは「レファレンス事例詳細(Detail of reference example)」をご覧ください。
こちら「大阪再発見」でも詳しく紹介されています。
ガイドさんから詳しい説明を受けましたが、勉強不足で登場人物のこと、あまり詳しく知りませんでした。
小さなお寺ですが、奥が深い歴史が深い。
天神ノ森天満宮
天神ノ森天満宮
天神ノ森天満宮・楠木
天神ノ森天満宮本殿
天神ノ森天満宮の詳しい説明は神社説明板の写真をご覧ください。
クリックで拡大。
阿部野神社ー久保田坂ー帝塚山古墳ー土佐陣屋跡
コースは中盤です
阿部野神社
阿部野神社
阿部野神社
北畠顕家公
阿部野神社(あべのじんじゃ)は、大阪市阿倍野区北畠にある神社である。南朝方について各地を転戦した北畠顕家と、その父の北畠親房を祀る。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。
ーーー続きはウィキペディアでご覧くださいーーーーー
阿部野神社HPをご覧ください。
久保田坂・帝塚山古墳
久保田坂1
久保田坂2
帝塚山古墳1
帝塚山古墳説明板
久保田坂
久保田坂はこの辺に明治の実業家で久保田鉄工所創業者・久保田権四郎さんの大豪邸があったことから「久保田坂」と呼んでいるそうです。土地などを寄付されたとか。
久保田坂付近の3D画像
久保田坂付近は上町台地の端の方になっています。
なので坂が急なのです。
国土地理院標高データ・5メートルメッシュを使って地形を描画してみました。
標高が低いので高さを3倍にして描いています。
赤い線は今回歩いたコースのGPS軌跡です。
久保田坂付近の3D画像(ジオ地蔵にて作成)
高さを3倍にして描いています。
赤い線が歩いたコースのGPS軌跡
帝塚山古墳
帝塚山と聞くと高級住宅地のイメージがありますね。
閑静な住宅街を歩いて帝塚山古墳にたどり着きます。
帝塚山古墳は国や市などが管理しているわけではないそうです。
「住吉村常盤会」が管理しているとありました。中へは入れなかったので外からの見学です。
大阪市内に残る唯一前方後円墳の原型を留めているんですね。
帝塚山古墳の説明は上の写真説明板をご覧ください。クリックで拡大します。
帝塚山古墳3D画像
帝塚山古墳付近は上町台地の上にあります。
帝塚山古墳3D画像(ジオ地蔵にて作成)
標高が低いので高さを3倍にして描いています。
赤い線が歩いたコースのGPS軌跡
久保田坂・帝塚山古墳付近の3D地形
久保田坂・帝塚山古墳付近の3D地形(基盤地図ビューアにて作成)
赤い線が歩いたコースのGPS軌跡
この図からも帝塚山古墳が、前方後円墳の原型を留めていることがわかります。
土佐陣屋跡
土佐陣屋跡碑(個人宅内)
土佐陣屋跡・今の東粉浜小学校付近一帯
幕末、東粉浜小学校付近一帯に土佐陣屋が作られたそうです。
坂本龍馬も訪れましたが、時間が遅く入れなかったという話もあります。
現在は何も残っていません。
そこで個人の方が説明の碑などを自宅内に作られています(上の写真)。
土佐陣屋跡について「城めぐ」HPが詳しく載せています。
自分の力では何にもできません。いろんなサイトで知るばかりです。
大阪住吉教会ー粉浜万葉歌碑ー源氏物語碑ー住吉公園(解散)
もう少し頑張れ・ゴールは近い
大阪住吉教会ー粉浜万葉歌碑
大阪住吉教会1
大阪住吉教会2
粉浜万葉歌碑1
粉浜万葉歌碑2
- 大阪住吉教会
大正7年に建てられました(その後改築あり)。
建物は登録有形文化財に指定されています。
訪れた時は入ることはできませんでした(休みだったのかな忘れました?)。
- 粉浜万葉歌碑
写真の説明板をみてください。
源氏物語碑
源氏物語碑1
源氏物語碑2
立派な源氏物語碑がありました。
でも内容は説明が難しいので、当地を訪れ説明版を読んでくださいね。
住吉公園(解散)
芭蕉句碑
芭蕉句碑説明板
高灯篭・摂津名所図会
現代の高灯篭(住吉大社駅ホームより写す)
とうとう「すみよし観光ツアー」紀州街道を歩くのゴール住吉公園に着きました。
最後に芭蕉の句碑の説明を受け、お土産のお菓子をいただいて解散です。
初めて紀州街道の一部を歩きました。
天下茶屋や帝塚山古墳など名前だけは知っているが行く機会がなかった。
今回のまち歩きで歴史的にも地理的にも面白いところを歩けて満足です。
ガイドさんの詳しい説明を受けながら、それをHPにちゃんと活かせないなんて情けない。
不勉強さが目立つHPとなりました。
でも自分では楽しかったまち歩きでした。
一生懸命説明や道案内をしてくれたガイドさん、本当にありがとうございました。
おっと忘れるところでした。
今回訪れた紀州街道は海から遠く離れています。
しかし太閤秀吉が住吉大社へお参りしていた時代は、海は上町台地の近くまで迫っていたそうです。
つまり漁業なども盛んだったかもしれません。
粉浜など浜の付く地名は海が近かった頃の名残でしょうか。
現在の景色だけ見てあれこれ考えてもダメということです。
歴史を知ること大事ですね。
このこともガイドさんが熱く話されました。
それから秀吉が堺へ行っていた頃は、今の大和川はなかったのですね。
つまり川を渡らず堺へ行けた。
歴史映画やドラマの時代考証大事ですね。
なんでも鵜呑みにしてはいけない、てことですね。
今回の「紀州街道を歩く」まち歩き途中の感想は「まち歩きブログ2015-11-1」をご覧ください。