渋川郡鞍作から平野郷へなにわの宮リレーウォーク第5弾参加2015-11-8


柏原船スタンプ
生駒山を背に平野川を行き来する柏原船 

参加コース行程

平野周辺は聖徳太子と物部氏ゆかりの地だそうです。
今回はその一部・渋川郡鞍作から平野郷へのまち歩きです。

スタート最寄駅:JR大和路線・加美駅~1:菅原神社集合・スタート~2:奥田邸住宅外回り~3:鞍作廃寺~4:平野の黄金水~5:樋之尻口門跡~6:安藤正次の墓~7:全興寺~8:長宝寺~9:坂上廣野麿屋敷跡~10:杭全神社~11:平野環濠跡・解散~解散最寄駅:JR大和路線・平野駅

今回歩いたコースのGPS軌跡です。
左上四角をクリックで一覧が表示。
地図上のマーカーをクリックすると簡単な説明を見ることができます。

まち歩きコースを上空から見れば

平野空中写真

空中写真に歩いたGPS軌跡を表示。
平野環濠存在時代の十三口場所を表示しました。

1:菅原神社集合・スタート~2:奥田邸住宅外回り~3:鞍作廃寺へ

あいにくの雨の中、大勢の人が参加したなにわの宮リレーウォーク出発


1:菅原神社・2:奥田邸住宅外回り・3:鞍作廃寺

菅原神社
菅原神社:今回の集合スタート場所です

奥田邸
奥田邸:見学はしませんでした

鞍作廃寺
鞍作廃寺:跡地に建っている現在のお寺は鞍作廃寺と直接関係はないようです。


今の加美駅近くの、明治末から大正初期の地図と現在の地図との比較

加美地図
この時期加美駅はありませんでした。
赤い線は今回歩いたコースのGPS軌跡:クリックで拡大します。
奥田邸の場所を記載してみました。現在の道路はほとんどありません。



菅原神社・奥田邸住宅外回り・鞍作廃寺については、2015-10-25日参加したまち歩き「鞍作氏の里・加美郷ものがたり」に詳しく載っていますのでご覧ください。
今回のまち歩きでは奥田邸の見学はしませんでした。「「鞍作氏の里・加美郷ものがたり」に参加した時には見学もしました。

皆さんも機会があれば是非「奥田邸」見学どうぞ。

鞍作廃寺から~4:平野の黄金水~5:樋之尻口門跡~6:安藤正次の墓

時折雨脚が強くなる中、まち歩きは続きます。平野郷へ突撃です。


平野郷

平野郷(今は言いませんけど)への入り口付近に川が流れています。
大阪の人や歴史・郷土史好きな人には有名な平野川です。

4:平野の黄金水

平野川・樋之尻橋
(A)平野川・樋之尻橋

平野の黄金水
平野の黄金水

平野はあまり良い水に恵まれていませんでした。井戸水の水質が悪く、そのままでは飲めなかったそうです。

ところがこの「平野の黄金水」と言われる井戸からは、おいしい水が出て多くの住民に利用されました。
付近住民にとっては貴重な飲料水だったのです。

醍醐の花見(秀吉)にもこの水を使ったお酒「平野酒」が好評だったとか。

今は平野公園の一角に井戸と碑が建っています。
ガイドさんの説明があったのですが、雨が強くなりじっくり聞けませんでした。
写真もやっと写しました。

5:樋之尻口門跡

戦国時代、平野は堺と並ぶ自治都市。やから者から住民を守るために郷の周りを濠で取り囲んだ。
郷の出入り口13箇所には木戸口を設け門と地蔵堂があった。

平野十三口と呼ばれたそうです。上の空中写真・赤い丸輪の場所が十三口の大体の場所です。
樋之尻口門は八尾・久宝寺への出入り口。結構重要だったようです。

樋之尻口門跡
樋之尻口門跡

樋之尻地口蔵堂
樋之尻地蔵堂

樋之尻口地蔵堂説明板
樋之尻口地蔵堂説明板:クリックで拡大


6:安藤正次の墓

元和元年大坂夏之陣に徳川秀忠に属し御旗奉行を務める。5月7日大坂城落城の直前に秀忠の使者として前田利常および本多康紀両軍に敵陣への攻撃を伝えた。しかし、その時に数騎の敵と遭遇し単身で戦い敵方の首級を挙げたが自らも深傷を負って家臣に助けられ本陣に戻り、秀忠から高名したと賞賛された。宿所の平野郷願正寺にて傷の療養をしていたが、再起不能と悟って19日自刃した。享年51。法名は浄徳院釈了栄。墓所は大阪市平野区の樋尻口地蔵堂向かいにある。

ーーーウィキペディアよりーーー  

画像の説明
安藤正次の墓

平野公園
平野公園交番:樋之尻口門跡や安藤正次の墓のそばにある

松山池
(K)この近くに松山池がありました


安藤正次の墓から~7:全興寺~8:長宝寺~9:坂上廣野麿屋敷跡

なかなか雨は止まない。雨の時にはアーケード街助かる。まち歩きも佳境へ入る。


7:全興寺

聖徳太子により薬師堂が建てられたのが始まり。
境内に「駄菓子屋さん博物館」「地獄道」などいろいろ楽しめます。

詳しくは

全興寺
全興寺:アーケード街から入る

全興寺
全興寺

全興寺
全興寺:境内にはいろんなものがあった

全興寺
全興寺:正門かな


8:長宝寺

長寳寺(ちょうほうじ)は、大阪市平野区平野本町にある高野山真言宗の寺院。山号は王舎山。院号は長生院。本尊は十一面観音である。「長宝寺」とも表記。。

創建は、大同年間(806年 - 810年)と伝える。寺伝によれば、開山は坂上田村麻呂の娘で、平野庄領主の坂上広野(坂上廣野麻呂)の妹の坂上春子(慈心大姉)とされる。春子は桓武天皇の妃であった。延暦25年(806年)に桓武天皇が崩御すると、春子は空海(弘法大師)に帰依して剃髪し、慈心尼と称した。寺は父の坂上田村麻呂(父)が大同年間(806-810年)に建立したという。

ーーー続きはウィキペディアでどうぞーーー

9:坂上廣野麿屋敷跡

坂上 広野(さかのうえ の ひろの、延暦6年(787年) - 天長5年3月9日(828年3月28日))は、平安時代初期の貴族。大納言・坂上田村麻呂の次男。官位は従四位下・勲七等・右兵衛督。坂上広野麻呂とも表記される。

ーーーウィキペディアよりーーー

坂上廣野麿
坂上廣野麿屋敷跡

坂上廣野麿屋敷跡
坂上廣野麿屋敷跡

摂州平野大絵図拡大
摂州平野大絵図同じ場所を拡大:長宝寺や田村麿の文字が見えます


坂上廣野麿関連説明板
坂上廣野麿関連説明板:クリックで拡大

坂上廣野麿屋敷跡から~10:杭全神社~11:平野環濠跡・解散

まち歩きも終わりへと向かいます。止みそうで止まない雨をもろともせず前進です。


10:杭全神社(くまた神社)

杭全神社を、くまたと読める人は大阪の人だけでしょうか。
私は読めませんでした。

貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。
ーーーウィキペディアよりーーー

杭全神社の参道近くにはお茶池という池があったそうです。

お茶池
(I)この辺りにお茶池という池がありました

お茶池橋跡
(J)お茶池橋跡

昔のお茶池橋
(J)昔のお茶池橋


杭全神社
杭全神社

杭全神社
杭全神社

杭全神社
境内には大きな木があります

杭全神社
境内の木々の紅葉も見られます


境内には全国で唯一、連歌所が残っていて市の文化財に指定されています。

杭全神社連歌所
杭全神社連歌所内部

11:平野環濠跡・解散

平野の環濠は、いつ頃掘られたものかは不明であるが戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持ってつくられたと考えられる。
町の周囲に堤を築き、その外に濠をもうけ、さらに二重になったところもあった。

濠は平野川ともつながり、杭全神社東側にあった船溜は平野川を上下する柏原船の発着で賑わい、繁栄の基礎ともなったが、時代の移りかわりとともに埋め立てられた。

環濠は、明治の初期には郷の東側から右廻りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お茶池、河骨池、関東池として平野郷を取り囲むように残っていたが、現在では杭全公園の北側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。

ーーー平野区役所HPよりーーー

明治期の平野郷

明治期の平野郷

空中写真に歩いたGPS軌跡を表示。
明治期地図と平野環濠存在時代の十三口場所


明治期の平野郷周辺地図

明治期の平野郷周辺地図

平野環濠跡
わずかに残る平野環濠跡

1920年代の平野郷地図
1920年代の平野郷地図


摂津名所図会より

熊野権現(杭全神社)
熊野権現(杭全神社)

長宝寺 安藤正次墓
長宝寺 安藤正次墓


平野地域のYouTube画像がありました


今回のなにわの宮リレーウォークのまち歩きも、ゴールの平野環濠跡に着きました。
あいにくの雨でしたが初めての平野郷、もっとゆっくり見たかったです。
雨でなければ本当に良かったのに。残念です。

ガイドの皆さん、ありがとうございました。

今回のまち歩き感想などは「まち歩きブログ2015-11-8」をご覧ください。

}}}

今回歩いたコースのGPS軌跡です。
左上四角をクリックで一覧が表示。
地図上のマーカーをクリックすると簡単な説明を見ることができます。

まち歩きコースを上空から見れば

空中写真に歩いたGPS軌跡を表示。
マウスドラッグで画面移動
マーカーをクリックすると簡単な説明が表示されます。
赤い丸輪は、平野環濠存在時代の十三口場所

1:菅原神社集合・スタート~2:奥田邸住宅外回り~3:鞍作廃寺へ

あいにくの雨の中、大勢の人が参加したなにわの宮リレーウォーク出発


1:菅原神社・2:奥田邸住宅外回り・3:鞍作廃寺

菅原神社
菅原神社:今回の集合スタート場所です

奥田邸
奥田邸:見学はしませんでした

鞍作廃寺
鞍作廃寺:跡地に建っている現在のお寺は鞍作廃寺と直接関係はないようです。


今の加美駅近くの、明治末から大正初期の地図と現在の地図との比較

加美地図
この時期加美駅はありませんでした。
赤い線は今回歩いたコースのGPS軌跡
奥田邸の場所を記載してみました。現在の道路はほとんどありません。



菅原神社・奥田邸住宅外回り・鞍作廃寺については、2015-10-25日参加したまち歩き「鞍作氏の里・加美郷ものがたり」に詳しく載っていますのでご覧ください。
今回のまち歩きでは奥田邸の見学はしませんでした。「「鞍作氏の里・加美郷ものがたり」に参加した時には見学もしました。

皆さんも機会があれば是非「奥田邸」見学どうぞ。

鞍作廃寺から~4:平野の黄金水~5:樋之尻口門跡~6:安藤正次の墓

時折雨脚が強くなる中、まち歩きは続きます。平野郷へ突撃です。


平野郷

平野郷(今は言いませんけど)への入り口付近に川が流れています。
大阪の人や歴史・郷土史好きな人には有名な平野川です。

4:平野の黄金水

平野川・樋之尻橋
(A)平野川・樋之尻橋

平野の黄金水
平野の黄金水

平野はあまり良い水に恵まれていませんでした。井戸水の水質が悪く、そのままでは飲めなかったそうです。

ところがこの「平野の黄金水」と言われる井戸からは、おいしい水が出て多くの住民に利用されました。
付近住民にとっては貴重な飲料水だったのです。

醍醐の花見(秀吉)にもこの水を使ったお酒「平野酒」が好評だったとか。

今は平野公園の一角に井戸と碑が建っています。
ガイドさんの説明があったのですが、雨が強くなりじっくり聞けませんでした。
写真もやっと写しました。

5:樋之尻口門跡

戦国時代、平野は堺と並ぶ自治都市。やから者から住民を守るために郷の周りを濠で取り囲んだ。
郷の出入り口13箇所には木戸口を設け門と地蔵堂があった。

平野十三口と呼ばれたそうです。上の空中写真・赤い丸輪の場所が十三口の大体の場所です。
樋之尻口門は八尾・久宝寺への出入り口。結構重要だったようです。

樋之尻口門跡
樋之尻口門跡

樋之尻地口蔵堂
樋之尻地蔵堂

樋之尻口地蔵堂説明板
樋之尻口地蔵堂説明板:クリックで拡大


6:安藤正次の墓

元和元年大坂夏之陣に徳川秀忠に属し御旗奉行を務める。5月7日大坂城落城の直前に秀忠の使者として前田利常および本多康紀両軍に敵陣への攻撃を伝えた。しかし、その時に数騎の敵と遭遇し単身で戦い敵方の首級を挙げたが自らも深傷を負って家臣に助けられ本陣に戻り、秀忠から高名したと賞賛された。宿所の平野郷願正寺にて傷の療養をしていたが、再起不能と悟って19日自刃した。享年51。法名は浄徳院釈了栄。墓所は大阪市平野区の樋尻口地蔵堂向かいにある。

ーーーウィキペディアよりーーー  

画像の説明
安藤正次の墓

平野公園
平野公園交番:樋之尻口門跡や安藤正次の墓のそばにある

松山池
(K)この近くに松山池がありました


安藤正次の墓から~7:全興寺~8:長宝寺~9:坂上廣野麿屋敷跡

なかなか雨は止まない。雨の時にはアーケード街助かる。まち歩きも佳境へ入る。


7:全興寺

聖徳太子により薬師堂が建てられたのが始まり。
境内に「駄菓子屋さん博物館」「地獄道」などいろいろ楽しめます。

詳しくは

全興寺
全興寺:アーケード街から入る

全興寺
全興寺

全興寺
全興寺:境内にはいろんなものがあった

全興寺
全興寺:正門かな


8:長宝寺

長寳寺(ちょうほうじ)は、大阪市平野区平野本町にある高野山真言宗の寺院。山号は王舎山。院号は長生院。本尊は十一面観音である。「長宝寺」とも表記。。

創建は、大同年間(806年 - 810年)と伝える。寺伝によれば、開山は坂上田村麻呂の娘で、平野庄領主の坂上広野(坂上廣野麻呂)の妹の坂上春子(慈心大姉)とされる。春子は桓武天皇の妃であった。延暦25年(806年)に桓武天皇が崩御すると、春子は空海(弘法大師)に帰依して剃髪し、慈心尼と称した。寺は父の坂上田村麻呂(父)が大同年間(806-810年)に建立したという。

ーーー続きはウィキペディアでどうぞーーー

  • 長宝寺HP

    長宝寺
    長宝寺

    長宝寺
    長宝寺

    長宝寺
    長宝寺:重要文化財の梵鐘は保存しています。こちらはレプリカだそうです。

    長宝寺説明板
    長宝寺長宝寺説明板:クリックで拡大


9:坂上廣野麿屋敷跡

坂上 広野(さかのうえ の ひろの、延暦6年(787年) - 天長5年3月9日(828年3月28日))は、平安時代初期の貴族。大納言・坂上田村麻呂の次男。官位は従四位下・勲七等・右兵衛督。坂上広野麻呂とも表記される。

ーーーウィキペディアよりーーー

坂上廣野麿
坂上廣野麿屋敷跡

坂上廣野麿屋敷跡
坂上廣野麿屋敷跡

摂州平野大絵図拡大
摂州平野大絵図同じ場所を拡大:長宝寺や田村麿の文字が見えます


坂上廣野麿関連説明板
坂上廣野麿関連説明板:クリックで拡大

坂上廣野麿屋敷跡から~10:杭全神社~11:平野環濠跡・解散

まち歩きも終わりへと向かいます。止みそうで止まない雨をもろともせず前進です。


10:杭全神社(くまた神社)

杭全神社を、くまたと読める人は大阪の人だけでしょうか。
私は読めませんでした。

貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。
ーーーウィキペディアよりーーー

杭全神社の参道近くにはお茶池という池があったそうです。

お茶池
(I)この辺りにお茶池という池がありました

お茶池橋跡
(J)お茶池橋跡

昔のお茶池橋
(J)昔のお茶池橋


杭全神社
杭全神社

杭全神社
杭全神社

杭全神社
境内には大きな木があります

杭全神社
境内の木々の紅葉も見られます


境内には全国で唯一、連歌所が残っていて市の文化財に指定されています。

杭全神社連歌所
杭全神社連歌所内部

11:平野環濠跡・解散

平野の環濠は、いつ頃掘られたものかは不明であるが戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持ってつくられたと考えられる。
町の周囲に堤を築き、その外に濠をもうけ、さらに二重になったところもあった。

濠は平野川ともつながり、杭全神社東側にあった船溜は平野川を上下する柏原船の発着で賑わい、繁栄の基礎ともなったが、時代の移りかわりとともに埋め立てられた。

環濠は、明治の初期には郷の東側から右廻りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お茶池、河骨池、関東池として平野郷を取り囲むように残っていたが、現在では杭全公園の北側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。

ーーー平野区役所HPよりーーー

平野環濠跡
わずかに残る平野環濠跡

1920年代の平野郷地図
1920年代の平野郷地図


摂津名所図会より

熊野権現(杭全神社)
熊野権現(杭全神社)

長宝寺 安藤正次墓
長宝寺 安藤正次墓


平野地域のYouTube画像がありました


今回のなにわの宮リレーウォークのまち歩きも、ゴールの平野環濠跡に着きました。
あいにくの雨でしたが初めての平野郷、もっとゆっくり見たかったです。
雨でなければ本当に良かったのに。残念です。

ガイドの皆さん、ありがとうございました。

今回のまち歩き感想などは「まち歩きブログ2015-11-8」をご覧ください。