「浪速名所獨案内」(江戸時代のガイドマップ)をたどるまち歩きに参加
2015-12-1大阪くらしの今昔館

スタンプ江戸時代の観光ガイドマップ「浪速名所獨案内」をもとに、上町台地を歩いてみました。

「浪速名所獨案内」とは

浪速名所獨案内
参加時にもらった資料

「浪速名所獨案内」とは江戸時代の大阪の観光ガイドマップです。
今回は現代の上町台地を、江戸時代の「浪速名所獨案内」と対比しながら歩きました。

大阪くらしの今昔館の谷直樹館長さんと学芸員の皆さんが案内してくれました。

「浪速名所獨案内」は今の地図のように位置関係が正確ではありません。
記載されている神社仏閣や名所などを参考にまち歩きをしました。

実は今回のまち歩きに使用した「浪速名所獨案内」を私も持っているのです。
もちろん本物ではありません。
数年前、大阪歴史博物館で土産物として購入しました。
ファイルケース?の表紙に「浪速名所獨案内」が印刷されています。

浪速名所獨案内印刷されたケース
大阪歴史博物館でお土産として買った
「浪速名所獨案内」が印刷されているファイルケース

珍しいので買ったのですが、今回のように利用すると楽しいですね。

参加コース行程

今回歩いたコースのGPS軌跡です。
地図上の各マーカーをクリックすると簡単な説明や写真を見ることができます。


まち歩きスタートです

「浪速名所獨案内」で江戸時代を体感するぞ!

①四天王寺から⑤第一目標地点まで

①四天王寺

2015-12-1現在五重塔は修復工事中です。

講堂、金堂、五重塔,中門

四天王寺「浪速名所獨案内」で紹介の四天王寺

画像の説明
極楽門(西大門)と石の鳥居(上)2015-10撮影
中門前より見た中門と中央伽藍(下左) 講堂、金堂、五重塔(下右)2013-6撮影

今の四天王寺は石の鳥居のある場所から、西大門(極楽門)をくぐり抜けて参拝に訪れる方が大半だと思います。

ところが本来は南大門の方が正面だそうです。
そして五重塔を拝んだそうです。
現在の四天王寺も南大門、中門を通り抜けると五重塔が目の前に現れます。
金堂は見えません。

しかしその後多くのお寺では、金堂に仏像を配置してそれを拝むようになりました。
そのために五重塔は左右に移動し、正面に金堂が見えるような配置が多くなりました。

四天王寺は戦争や災害などで何度も建物が消失しましたが、すぐに再建されたそうです。
そして創建以来建物の場所や大きさはほとんど変わっていないそうです。

ところが上の写真でもわかるように、南大門から縦に伽藍が広がっているので
奥行きがあってもあまり広さを感じられません。

そこでその後の多くのお寺では、横に広がるような配置に建物を建て、正面に金堂、左右に五重塔や講堂などを配置するようになっていったそうです。

法隆寺などがいい例です。

四天王寺も建物の配置は変わりませんが、石の鳥居から入ると左右に伽藍が広がっているように見え、お寺が広く感じられます。

四天王寺方式

伽藍(がらん)配置の一方式で、南大門・中門・塔・金堂・講堂が南北に一直線上に並ぶもの。四天王寺などにみられ、飛鳥時代の代表的なもの。

四天王寺の金堂や講堂の屋根について

金堂や講堂の屋根の写真


(上)金堂や講堂の屋根の錣葺(しころぶき)について説明がありました。
(下)講堂の扇垂木(たるき)で、放射状の丸地垂木(まるじだるき)です。(左)北鐘堂の平行垂木(たるき)
錣葺や垂木について全く知識がありませんでした。勉強になりました。

六時礼讃堂

六時礼讃堂
(上)六時礼讃堂と亀の池
池にはたくさんの亀がいました。
(下)重要文化財の石舞台と六時礼讃堂の垂木など屋根の話を聞きました。

安政地震津波の碑

安政地震津波の碑
(上)安政地震津波の碑。周りに無縁墓?が増えて碑が隠れかけている。
(下)遺構坂清水と金剛組(世界最古の企業、谷町筋にあります)

安政地震津波の碑
安政地震津波の碑の説明板

昔の大阪湾

昔の大坂,70%
昔は上町台地近くまで海が迫っていた
建物は全体のイメージをつかむためのものです。

②浮瀬(うかむせ)

現在の大阪星光学院の場所にあった江戸時代の大阪を代表する料亭。
松尾芭蕉も訪れたとか。

浪速名所獨案内にあるうかむせ
浪速名所獨案内にある「うかむせ」「愛染堂」「家隆塚」

浮瀬
愛染坂途中に設置された浮瀬(うかむせ)説明板
大阪くらしの今昔館長・谷直樹先生の説明が本当に詳しくてよかったです。


浮瀬(うかむせ)説明板1
浮瀬(うかむせ)説明板1

浮瀬(うかむせ)説明板2
浮瀬(うかむせ)説明板2

戦前の浮瀬(うかむせ)写真
明治の浮瀬(うかむせ)写真

③愛染堂(勝鬘院)

愛染堂(勝鬘院)
重要文化財の愛染堂(勝鬘院)多宝塔

愛染堂(勝鬘院)多宝塔の説明板
愛染堂(勝鬘院)多宝塔説明板

多宝塔の原型はインドの仏塔ストゥーパだそうです。

愛染堂(勝鬘院)多宝塔の12の干支の彫刻
(上)多宝塔の回りに12の干支の彫刻が施されている。でもよくわかりませんでした。
(下)家隆塚へ行く途中に見た愛染堂遠景

池上本門寺(東京)にある多宝塔
池上本門寺(東京)にある石造の多宝塔(東京にいた頃何気なく撮影したものです)

④家隆塚から南平野町へ

南平野町・北平野町 とは

今も大阪市内には平野町の名前が残ります。
平野郷から移り住んだ人たちが住んだ場所だったようです。

しかし秀吉が大阪に城下町を作った当時は、平野郷から住民が移住した場所は
大阪城と四天王寺を結ぶ線上に位置したそうです。
江戸時代、南平野町・北平野町と呼ばれていた地域です。

大坂夏の陣後、大坂市中の武家屋敷跡に南平野町・北平野町の町人が移住しました。
残された町内は空き地が広がり、その後町役地(町)から年貢地(村)へと転換していったそうです。

現在は南平野町・北平野町の町名はなくなりました。

北平野町地図
明治の地図に表示されている北平野町

南平野町地図
明治の地図に表示されている南平野町

現在の南平野町・北平野町地域
あべのハルカスから見た昔の南平野町・北平野町地域
(正確なものではありません。)

家隆塚
(上)家隆塚
(下)南平野町を歩く。古い民家

家隆塚説明板
家隆塚説明板

摂津名所図会で見る、うかむせ、愛染堂(勝鬘院)、家隆塚

摂津名所図会
摂津名所図会の「うかむせ、愛染堂(勝鬘院)、家隆塚」
現在「うかむせ」の説明板が設置されているのは、上の図(摂津名所図会)の愛染坂の途中です。

⑤第一目標地点(上汐公園)に到着 一部の人は解散

今回のまち歩きの第一目標地点である(上汐公園)に到着。
ここで解散する人もいました。

ここまで案内していただいた、大阪くらしの今昔館長・谷直樹先生は時間の都合で第一目標地点まででした。
先生の説明は分かりやすくて本当によかったです。ありがとうございました。

第一目標地点から第二目標地点・ゴールまでは、学芸員の皆さんが案内してくれました。

第一目標地点(上汐公園)
第一目標地点(上汐公園)

第二目標地点までまち歩きは続く

⑤第一目標地点から⑦第二目標地点・ゴール解散まで

北平野町を歩く

「梅が辻」「妙法松」
浪速名所獨案内に載っている、「梅が辻」「妙法松」

北平野町を歩く
(上)昔の北平野町を歩く。
(下左)浪速名所獨案内に載っている、梅が辻付近。(右)古いがどっしりとした建物。

妙法松
(上左)浪速名所獨案内にも載っている「妙法松」がある妙法寺
(上右)久本寺
(下)うだつのある建物など。

⑦第二目標地点・ゴール解散

今回のまち歩きのゴールに到着です。

第二目標地点
(左)⑦第二目標地点
(右)空堀商店街

解散地点の最寄駅は地下鉄(谷町線)谷町六丁目駅でした。

今回のまち歩きは普段なかなか歩くことなかったコースを歩くことが出来てよかったです。
大阪くらしの今昔館の谷直樹館長さんと学芸員の皆さん、本当にありがとうございました。

今回のまち歩きの感想などを「大阪周辺iPhone持ってぶらり歩きブログ」に書いています。
よければ見てください。